エピソード20

 いよいよまた、年が代わり行く時間がやって来た。
アメリカで迎える静かな一年の終わりも、今年でもう三回目。

まあ『静か』とは言っても、それはただ日本のような伝統行事が無いだけで、毎年何かしら、終わり行く年を締めくくり、また新しい年を迎える準備をする出来事は起って来る。

去年の大晦日には、初めてクリスと顔を合わせた。
それから開けたこの一年、たくさんの思い出がそこに産まれた。
初めて握手を交した手の温もりが、たった昨日の事のように感じられる。そしてまた遠い昔の記憶にほどけていく。

無数の果無い記憶の欠片たちが時間の流れにのりながら、私の宇宙にちりばめられていく。


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 さて今年の大晦日は、何とあのクレイグと、お猿を連れてカーメルまでの一泊ドライブ旅行をする羽目に陥った。

十二月始めの初顔合わせ以来、この半月の間、彼とは主にEメールを通してお互いの状況を話して来た。そうして様子を見て行く内に『これは何となく大丈夫かな』という気がして来た頃、実際彼の家を見せてもらい、そしてそれからまた暫く迷いに迷った末、結局ついにクレイグの家に入居する事に話を決めたのだった。

正確に言うと、今まだ現在のレンタルオフィスに一ヶ月前の退去届けを出さなければいけないので、実際彼の所に移るのは再来月の二月以降のこととなる。

一旦そうして話が決まると、掃除などの家の仕事の分担といった具体的な話が少しづつ話題に上るようになってきた。そんな話を進める内に、クレイグが、私が間借りを開始するのに当面必要とされる家具たちを、カーメルに住む彼の両親の所から借りて来ようと言い出した。

最初この計画を聞いた時には、正直、かなりの躊躇があった。
いくらこれから間借りをして一緒の家で暮して行くとはいっても、大家との一泊旅行だなんて、やっぱりちょっといただけない。
しっかり『×イチ』入ったこの身でも、厚かましくも言わせてもらえば、これでも『また』、れっきとした『嫁入り前の娘』なのである‥のかな?

しかしまあ、よくよく彼の話を聞いて行くと、ご両親の家のお隣には彼自身の家もあって、『一緒にステイしても、ちゃんと独立したプライベートな空間は確保出来るから。』という事だった。 それにまあ、私の新生活に使う家具をお借りしに行くわけなのだから、そうそう嫌だと言ってばかりもいられない。

結局、こうして最後には、半ばクレイグに押し切られるようにして今回のカーメル行きはスタートした。

 

 カーメルという場所は、映画『フォレスト・ガンプ』のモデルとなったレストランもある海岸線の観光地モントレーの隣にあって、いわゆる、お金持ちがゆったりと住む豊かな地域になっている。

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正直言って私自身、この芸術の街カーメルには、前々から密かな憧れを持っていた。

だがしかし、実際こんな形で訪れる機会が来ようとは。
予測のつかない運命の気まぐれさ加減には、感謝すべきか迷惑すべきか‥。

 

 カーメルへと向かう当日。
朝早く、クレイグが大きなレンタルトラックを運転して、お猿と私をピックアップに来てくれた。

「おはよう。用意は出来てる?」

「おはよう。早いね。」

朝の早い時間だというのに、不自然な程に爽やかな笑顔を浮かべるクレイグと挨拶を交した後は、アクビをかみ殺しながら、運転席と助手席の間にドンとチャイルドシートを据え付けて、その中にお猿を座らせると、自分もさっさと助手席に乗り込んだ。

私の重い気持ちなどどこ吹く風で、お猿はとってもご機嫌だ。

そうして用意が整うと、早速トラックはカーメルに向けて出発した。

 

 いざ街を抜け出して、まだ車の流れも少ないフリーウエイをトラックがスピードを上げて走り出すと、それは思いの外快調なドライブとなった。
スコンと晴れ渡った空の下、全開の窓から吹き入る風にロックのボリュームを大きく上げる。チャイルドシートの中では、お猿が大きく身体を揺すりながら、リズムを刻んでもがいて‥‥いや、踊っている。

フリーウエイをしばらく行くと、窓を通り抜ける空気の匂いが変わった。

草の匂い、土の匂い‥。遥か遠くの空に溶け行く小麦色の草原で、牛たちがのんびり草をはんでいる。
思い切り大きな深呼吸をする。
広大な自然にかけられた魔法で、出発前のぎこちない空気も、優しい笑顔に塗り替えられていくような気がした。

二時間程フリーウエイを走った後、車は右に逸れてカーメルへと続く出口を降りた。

まるで印象派の画家たちのブログ, エッセイ, シングルマザー, 海外生活, 人気のブログ, 注目のブログ, 話題のエッセイ, カリフォルニア生活, アメリカ生活, ノンフィクション, 現代画家, 人気, アーティスト, サンフランシスコ, フェースブック話題の人, 話題の人, 海外の日本人アーティスト, 海, 海岸, ビーチ, カーメル, 自然カンバスの中にでも迷い込んでしまったかのような青い海。
この世のすべての美しい言葉を集めてもまだ語りきれない壮大な海岸線の風景に抱かれ、しばしの間現実を忘れる。

海岸線をしばらく走り、最後にトラックは、真っ白な砂浜に臨んで立つ大きな家の門の中に吸い込まれるように入っていった。

 

 エンジンの音が止まると同時に、家の中からは待ちかねたように、クレイグの両親が出迎えに顔を出してくれた。

今はもう、美しい海を眺めながら静かなご隠居生活を楽しむお二人。
昔はドクターをしていたという朴訥なお父さんに、これまた昔は女優をしていたという見事なプラチナブロンドの髪をしたお母さん。二人で一緒に歩いた長い長い時間が素敵なハーモニーを奏でている老夫婦の姿がそこにあった。

それぞれがクレイグと大きなハグを交し、そしてトラックの横に立っている小さなお猿と私の姿に気が付くと、これまた顔中を皺クチャにして微笑みながら、この『一人と半』の客人を、まるで古くから知る友人のように暖かく家の中に招き入れてくれた。

 

 一通り挨拶がすんだ後は、まずは荷物を解くために、客間のある離れに通された。
今回は仕事の義務のようにして、クレイグについて、殆どカルガモ状態でこのカーメルまでやって来た。しかし、実際ここについてからは見る物全てに圧倒された。

玄関に足を踏み入れると、そこはもう黄金時代のハリウッド映画の世界だった。

エレガントに装飾されたホールを右に折れて、細かいカットグラスの細工の入った大きな一枚硝子がはめ込まれたドアを通ると、ブログ, エッセイ, シングルマザー, 海外生活, 人気のブログ, 注目のブログ, 話題のエッセイ, カリフォルニア生活, アメリカ生活, ノンフィクション, 現代画家, 人気, アーティスト, サンフランシスコ, フェースブック話題の人, 話題の人, 海外の日本人アーティスト, カーメル, 贅沢な家そこからは建物に沿って、細くて長い階段状の屋外通路が下りていた。
竹の生垣で仕切られた通路には、まるで山林の遊歩道を行くような安らぎに満ちた木漏れ日が落ちている
階段の一番下は、どうやらまた家の中に通じているようだ。

ドアを出ると、ひょいとクレイグがお猿を肩車してその坂を下り出した。小さなボストンバックを持ってその後に続く。
私たちについて、お母さんがとても可愛がっているという大きなドーベルマンのベルも、まるで道先案内でも務めるように一緒に坂を下りて来た。

客間のドアは、坂を途中まで下った所にあった。
それは一見、まるで古びたキャンプ場のバンガローにでもあるような素朴な木の造りになっていて、そのポッテリとしたノブに手をかけると、何となく腰を落ち着ける場所を見つけたようでほっとした。

しかし、そのドアを開けるや否や目に飛び込んできたのは、もはや私の一瞬の安堵などせせら笑われてしまいそうな、これまた贅沢でゆったりとした異次元の空間だった。

海に向かって壁一面に張られたガラスの出窓から、美しい海岸線の風景が一望できる。モダンな三角錐の暖炉を真ん中に据えて、イタリア調に趣味よくコーディネートされた居間の奥には、総大理石張りのジャグジーバスのついた寝室が二つもあり、そこにはそれぞれ、真っ白なレースのカバーが掛かるふっくらとしたキングサイズのベッドが置いてある。バーベキューパーティーも猶にできる広いデッキの角からは、メイドルームへも行き来でき、またそれでさえもが、ダウンタウンの私の部屋と同じくらいの広さがある。

うーん‥。
今全く、このサンフランシスコの『メイドルーム』の家賃にも途方に暮れる毎日を送る私が、果たしてこんな所でこんなことをやっていてもいいのだろうか?

「ちょっとママたちと話す事があるから、荷物解いたらここで待ってて。僕は隣にある自分の部屋にステイするから、君たちはここを自由に使ってくれていいよ。」

客間の説明を一通り終えると、クレイグはベルを連れて、そそくさと坂を上って行った。

さっきからお猿は、スプリングのきいたベッドによじ登り、大喜びで奇声をあげながらトランポリンを楽しんでいる。私もやっとクレイグから解放されて気分も少しリラックス。解きかけの荷物は放り出して、お猿と一緒にベッドの上に飛び乗った。

まあいろいろ考えたところで、同じ時間を過ごすのだったら、この際、思いっきり堪能させて頂かなければ損である。
私は今、憧れのカーメルにいる。ここにいる少しの間、現実の時間は鞄にしまって硝子の靴を履いてみるのも悪くない。

 

 コン、コ、コン‥コン、コン‥

フカフカのベッドの上で、子犬のようにお猿とじゃれあうこと半時間。外からドアがノックされた。

「大体何を運ぶかは今ママと話して来たよ。ベッドは確保したし、机とドレッサー、後はスタンドライトといったとこかな?これから海側のメインリビングで皆でランチをとるから出ておいで。もう荷物は落ち着いた‥?」

手にしたメモを見ながらそこまで言うと、ドアを開けた私を見て、クレイグがプーッと吹き出した。
ハッとして自分の姿を振り返る。
ああ‥。お猿と我を忘れてはしゃぎ過ぎ、髪はボサボサの爆発状態、鞄もまだリビングの床にドンと開いたまま、中身がそこらに散乱している。

「君たち一体、何やってたの?」

『しまった!』と慌てまくる心の動揺の上に極めて平静を装いながら、

「ああ、大丈夫よ。荷物なんて後でも整理出来るから。」

澄ました顔を繕ってぐいっとお猿を引っ付かむと、手櫛で髪を整えながら、階段を下りて行くクレイグの後について部屋を出た。

クレイグの背中が笑っている。お猿もつられて‥わけも分からないくせに笑い出す。大きな笑い声のエコーの中で、何だかバツの悪いような楽しいような‥。トボトボと階段を下りて行きながら、いつの間にか私も笑っていた。

 

 下りて行く階段の終点は、またレトロな細工のされた硝子ドアのついた、母屋のメインリビングの入り口となっていた。

中に足を踏み入れるなり、すかさずベルがソファの陰から飛びついて来て、ドンと無遠慮にそのぶっとい前足を私の胸にかけたかと思うと、ブログ, エッセイ, シングルマザー, 海外生活, 人気のブログ, 注目のブログ, 話題のエッセイ, カリフォルニア生活, アメリカ生活, ノンフィクション, 現代画家, 人気, アーティスト, サンフランシスコ, フェースブック話題の人, 話題の人, 海外の日本人アーティスト, ドーベルマン, 犬生暖かい舌で顔中をベロンベロンとナメ出した。

ついさっき会ったばかりにもかかわらず、これ程までに旺盛な愛情を私達に示してくれるベル。ドーベルマンにしてはとても大きな体つきで、こうして立つと、軽く私の身長程もある。

穏やかな顔付の首には細い金のネックレスをかけ、見るからに『普段からいい物を頂いています』と言わんばかりにコロコロと美しい毛づやをしている。

最初はベルが近寄る度に、顔を強ばらせながら私にピッタリくっ付いていたお猿も、この超博愛主義者のベルの熱烈歓迎振りには直ぐに打ち解けてしまったようだ。数分もたたないうちに、もうこの半人と一匹は、同じ目線で、仲良くその広大なリビングルームを駆け回り始めた。

太い一本柱に区切られた奥のダイニング・コーナーでは、きれいにセッティングされたテーブルを挟んで『あーでもないこーでもない』と何やら真剣な面もちで話をするお父さんとお母さんの姿が見えた。

「ニューイヤーのパーティーの、メニューの相談をしているんだ。」

後ろからクレイグが、小さな声で教えてくれた。

「ママは、パーティーをアジアン・テイストでコーディネートしたいんだって言ってた。今日のランチもそのための試食スタイルで作ってるみたいだから、後でシャパニーズの君の意見も聞きたいなんて言ってたよ。」

‥うーん。これ程のお宅のホームパーティーに、私の意見など烏滸がましい。
私が提案出来る日本のおご馳走なんていったら、『豚カツ』だとか『すき焼き』だとか、所詮そんな庶民的な物が精一杯。‥ま、それはそれで私のおご馳走には違いないのだけれど。

お猿はさっきからベルについて、ヨチヨチ夢中で隠れんぼを楽しんでいる。このとてつもなく広い空間の中では、クレイグが前に腰を下ろしたフルサイズのグランドピアノでさえ、玩具のように小さく見える。

取り合えず私もダイニングからは少し離れて、彼らの美味しい会議が終わるのを待つ事にした。

スクリーンの女優を気取りながら、フンワリとしたスエードのソファに腰を下ろす。
二階の高さまで吹き抜けたガラスの壁を透して、真っ白な砂浜が見渡せる。

ああ、今日もいいお天気だ。

 

 程なく、メニュー会議にも一段落がついてランチの時間が始まった。
テーブルの上には所狭しと、私が見こともないーお母さんが言われるところのー日本料理が並んでいる。
楽しい食事が始まった。

‥っと言いたいところだが、実はいざ、その上品にセットされたテーブルを前にしてしまうと、ブログ, エッセイ, シングルマザー, 海外生活, 人気のブログ, 注目のブログ, 話題のエッセイ, カリフォルニア生活, アメリカ生活, ノンフィクション, 現代画家, 人気, アーティスト, サンフランシスコ, フェースブック話題の人, 話題の人, 海外の日本人アーティスト, グルメ, レストラン, テーブルセッティング, ごちそう, 特別な日の食事, パーティー立ち上がってその場を逃げ出したい衝動に駆られた。

こんなゴージャスな空間で、それも、今日初めて顔を合わせた人たちと囲む畏まったテーブル。正直なところ、それは食事を楽しむというよりも、まるで一流ホテルでテーブルマナーの講習か何かを無理矢理に受けさせられてるような心境だった。

お上品にセットされた銀のシルバーウエアたちは、ツンとしたお鼻を天に向けている。目の前に並んだ『珍しい日本料理』たちも、まるでデパートの食品売り場のディスプレイを見ているようで、味など噛み締めている余裕はない。

今日はお猿を連れて来て、本当に正解だった。
まだ小さくて何も分かってはいない彼女、緊張で固まる母親を横目に、さっきから一応、『ちょっと何だか違うぞ』モードに入ってはいるものの、極めて平常心を崩すことなく彼女流の素晴らしくマイペースなテーブルマナーを披露しながら、ぐわしと目の前にある食べ物を鷲掴みにして楽しそうにお口へ運んでいる。

彼女が何かする度に、お母さんの気がそちらへ向く。
お猿の事を『スイート・ハート』と優しく呼んで、とろけるような瞳で次々に美味しい物を彼女のお皿に入れてくれる。
お猿が笑うと、お母さんもお父さんも一緒になって微笑む。
優しい空気に緊張の糸が緩んでいく。

そんな笑顔をながめていると、ふと、去年、孫の顔を見に日本からやって来た父と母の顔が浮かんだ。
まだちっぽけでムシのようだったお猿に、未だかつて見た事もないデレデレの大親馬鹿ぶりを発揮していた彼らの姿が目の前の老夫婦にだぶって来る。

今の私の状況といえば、グリンカードの申請手続きの真只中。移民局の面接すらもまだいつになるのかは分からず、とにかくカードがおりるまではアメリカを出る事は許されない。そんな拘束中の身では、両親にとって初孫で、たった一人の孫である彼女の成長も、遠路はるばる、彼らがサンフランシスコにやって来る時にしか見せてあげる事が出来ない。

きゅっと胃の底が絞られて、心の中で小さく『ごめんなさい』と呟いた。

 

 さて、そうしてどうにかランチの時間を切り抜けた‥じゃなくて、終えた後は、お猿を連れて、海岸線を散歩してみる事にした。
海に面したこの巨大なリビングルームからは、中庭を抜けて、直接海岸へ出て行けるようになっている。

ワシワシと庭を覆い、そこら中にびっしりと生えているドクダミのようなそうでないような草を踏みながら砂浜まで出て来ると、空気の色と匂いが変わった。

ザザーン‥ザザーン‥

寄せては返す波の音をバックに、潮っぽい風が時折思い出したように、砂浜に咲く花たちの頭をそよがせて行く。
昔、古いカフェの壁にみたような、色褪せて、ほんの少しぼかしのフィルターのかかった優しい風景の中を、ヨチヨチ歩きのお猿の手を引きながらゆっくりゆっくり歩いて行く。

お猿はもうさっきから、目につく物全てが嬉しいようだ。
砂浜に落ちた流木の欠片を拾っては笑い、自分の背の高さ程もある黄色い花の頭を覗いてはまた笑う。
時折空気のリズムを変えるように強く吹く潮風の動きにも、またその小さな手をパチパチたたいてにっこりと笑う。

砂浜をしばらく歩いて行くと、海岸に添う唐草の茂みに、細い入り口があるのを見つけた。先はどうやら向こうの崖に続いている。
ちょっとそこで立ち止まり、お猿と顔を見合わせた後、そこからは少し冒険をしてその横道に進路を変えてみる事にした。

蔓が絡まった小道の入り口を、かき分けるようにゆっくり中に入って行く。
遠くまで見渡しのきく砂浜から離れ、その頼り無く続く細い細い進路を進んで行くに従って、まるで、柔らかく色褪せた若草色の迷路の中に迷い込んだ錯覚に陥った。

左右、腰の高さまでびっしりと茂る蔓の間からは、突然ピーターラビットが飛び出して来てもおかしくはない。淡いパステルに色づけされた小さな花たちが、こんもりとした蔓草のベッドを飾っている。

絵本のページをめくるようにどこまでも優しく続いて行く風景の中を、お猿の小さな手を引きながら夢中で前に進み続けた。

 

 茂みを抜けると、今度は地球のテッペンに立つような開けた丘の上に出た。
そこから小道は、野の草で覆われたなだらかな崖縁に沿って続いて行く。
崖の足元に目を落とすと、思わずハッと息を呑んだ。
そこには信じられぬ程に澄み渡った湖が、まるで神の手で描かれた神聖な絵画を見せるように、そこにあるすべての物たちを逆さまに映し出しながら悠然と横たわっていた。

‥とその時、

「ほら、あそこを見てごらん。」

突然後ろから聞こえた太い声に、幻想のシャボンが弾けて消えた。

私も相当に失礼なヤツだけれど、この素敵な散歩の道中、クレイグが一緒について来ているなんて事は、もうすっかり頭の中から消え去っていた。
何だか一瞬にして夢の世界から現実の中にスポンと掴み戻された気分だ。

本来なら、ランチの後の散歩の時間は、お猿と二人っきりでこのどこまでも美しい海岸線を歩きたかった。しかし、そこで当然のようにしてついて来るクレイグを断わるよい言い訳も見つけられないまま、結局こうして、小石の入った靴を履いて歩き続けなければいけないような散歩の時間が始まったのだった。

ガックリと興醒めした思いで、彼が指差す湖の向こう岸に目をやった。そこには乗馬柵のついたグラウンドを備えた大きなコテージ風の建物が、静かに湖畔に影を落としてたたずんでいるのが見えた。

「あの建物は、クリント・イーストウッドの家なんだ。元はホテルか何かだったんだけど、彼が買い取って自分の家に改造したんだそうだよ。彼はここの市長もやってるからね。」

スクリーンで見る大スターの生活が、ここでは『ご近所さん』のお話になる世界。まだまだこの世の中は、私の知らないことで満ちている。

思いがけない発見に、落ち込んだ気分もやや持ち直し、しばらくそこで湖の風景を楽しんだ後は、またそこから道を折り返し、迷路を抜けてゆっくりと来た海岸線を戻って行った。

海辺の家が見えて来ると、道中、子供のように砂の上の平たい石を拾っては波の中に飛び石させて遊んでいたクレイグが、

「これからダウンタウンまで出てみようよ。カーメルまで来て街のギャラリーを見ないで帰るなんて事はないだろ?丁度ママから頼まれた小包もあることだしね。」

と、既に自分の中にあったプランを、さも『今、ふいに思い付いた』といったような素振りで誘って来た。

まあ、これには私も全面的に大賛成。
‥この見境のない現金さが、今の私の経緯のすべてを説明してくれているような気がするのは否めない。

 

 海岸線を離れると、車は大きな家が悠然と並ぶ閑静な住宅街の中に入って行った。

のびのびと枝を伸ばした緑の樹々に覆われた美しいヨーロッパ調の家々が,童話の中に迷い込んだような優しい風景を作っている
丁寧に手入れをされた庭の中には、天使のような子供たちの笑顔がのぞいている。

ドライブが街のメインストリートに近付くに従って、のどかな通りも少しづつ華やぎを増して来た。

通りの両側には、ぽってりとカラフルなペンキで塗られたアメリカの昔情緒あふれる店たちが顔を並べ始め、石畳の歩道には、ウインドウショッピングを楽しむカップルや家族連れ、行き交う人々の幸福な笑顔が満ちてくる。
サラサラと心地よい風が吹き抜ける気取らない店先のベンチでのんびり読書にふける人、街路樹が落とす柔らかな木陰で大きなナップサックを下ろしてひと休みする観光客のカップル、トロンとした目で買い物から出て来るご主人を待っている犬たち。ゆっくり流れる時間の中で、皆が思い思いに自分たちの時を過ごしている。

玩具のような郵便局にクレイグの『口実』が詰まった小包を出した後は、私達もお猿をのせたストローラーを押しながら、ゆっくりと歩道を行く人たちの流れに加わった。

『芸術家の街カーメル』という名を誇るように、ストリートには軒を列ねて様々な種類のギャラリーが並んでいた。
その一つ一つのドアの中に足を踏み入れるたび、まるでウサギの後を追い掛けて『不思議の国』の穴の中に迷い込んだ錯覚を見る。

美しい蝶の羽根をした風車が回っている。太陽の代わりに光り輝きながら空に浮かんだ巨大な玉子の殻の修復に、神話の中の人々が木の足場を組み働いている。
薔薇の花びらの中には小さな妖精が眠り、大きなマザークロックの文字盤からは、沢山のスライド映像をバックにして過去と未来に繋がる階段が伸びている。

神から人間に与えられた一番貴重な財産という物があるのだとしたら、それは『想像力』に違いない。この空間で確信する。

 

 ‥とその時、

「ハニー」

カウンターパンチを食らわすように、『また』幻想の背後から、太い声が土足で割り込んで来た。
しかも『ハニー』‥‥?‥??????
言わせてもらうが今の所、この私をハニーと呼ぶのはクリスただ一人だけだ。
一体全体何がどうした事なのだろう?

疑惑で顔を引き攣らせながら、恐る恐る、隣に立ったクレイグの顔に目を向けてみた。

「ハニー、この絵はうちのリビングの壁にピッタリだと思わないかい?
来月が君の誕生日だろう?
そこでどうだろう。この、$12、000の絵をそのお祝にするってのは?」

「‥‥?」

呆気にとられてジーッと顔を見つめる私に、彼はニヤリと笑ってウインクをした。

「冗談だよ!冗談!君があんまり真剣に絵を見つめているもんだから、ちょっと辛かってみたくなっただけさ。」

そう笑いながらもクレイグの手は、私の腰に回っているじゃあないか!
次の瞬間、背中中の毛穴が総立ちになり、体の中にゾワゾワとした物が走り抜けた。

冗談の通じないヤツで申し訳ないが、これにはすっかり気分も動転してしまい、ギャラリーを出た後はもう周りの風景など目には入って来なかった。ただ、小さなベビー連れの彼と私が通りを行く人たちの目にどう映っているのかを考えると、一刻も早く、その場を離れたい思いに駆られた。

 

 ランチと同じで、素敵だけれど味の分からない夕食が済んだ後は、飲みに出ようとしつこく誘って来るクレイグを断って草々に客間へ引き上げた。

熱いシャワーをさっと浴びると、その後はさっさとベッドにもぐり込んだ。
お猿は彼女なりに楽しい一日を満喫したのだろう。ベッドに入ると直ぐにストンと寝入ってしまった。そんな平和な彼女に対して、私はフカフカの布団の中で、なかなか眠りに落ちて行けない。

大窓から射し込む月の明かりが部屋の中を薄青く照らしている。
すぐ窓の外で響くうるさい程の潮騒。

ぼんやりと天井に目を移す。
そこでは、これから変わり行く生活を見つめる恐怖が無気味な黒い塊となって、目の前でジッと私の顔を睨んでいるような気がした。

生暖かい水滴が目の脇を伝って耳に入る。
頬に触れるスヤスヤとした小さな寝息に、また熱い雫が沸き上り、今度は次々にこぼれ出して止まらなくなった。

 

 結局殆ど眠れないまま、太陽が昇って部屋の中が薄明るくなって来ると、重い頭でベッドから起き出し、ノロノロと帰り支度に取り掛かった。

朝食の席では、お猿をとても気にいった様子のお母さんから、もう一泊泊まっていったらどうかと強く誘われた。

『今度はいつ来るの?』

そう言って何度も聞いて来る真直ぐな瞳。

『これではまるで、私がクレイグの彼女か何かで彼のご両親を訪ねた様子ではないか。いったい彼は今回の訪問のことを、ご両親に何と告げていたのだろう?』

自意識の過剰さも手伝って、また胸に嫌な思いが走った。

しかしそんな思いの一方で、小さな苛つきが私を叱る。
初めて会ったお猿と私をこんなに優しい瞳で包み込んでくれたクレイグのお父さんとお母さん。

『皆、あったかでいい人たちばかりなのだ。私の方が、まだ精神的にバタバタピリピリしていて、それを素直に受け入れる準備が整っていない。』

車庫の軒先きで荷物をトラックに積み終えると、見送りに出て来てくれた老夫婦と、最後にギュッとハグを交わした。
何だかとても疲れていた‥。

 

 帰りのフリーウエイでは、もうひっきり無しに隣から話し掛けて来る英語の言葉もあまり耳に入って来なかった。とにかく早く解放されて、お猿と二人になりたかった。

クレイグの家でカーメルから運んで来た荷物を解き終えてアパートメントまで帰ってくると、荷物を運ぶのを手伝うと言う彼の申し出を丁寧に断り、大きなカーシートと旅行鞄を両腕に抱え、その上にお猿の手を引きながら、どうにかこうにかエレベーターに乗り込んだ。

エレベーターが動き出して、またお猿と二人、その見慣れた小さな空間の中で息を吸い込んだとき、それまでピリピリしていた神経がほぐれて行くのを感じた。

「ただいま!」

部屋のドアを開けながら、お腹の底からほっとした。
そこでは、カーメルの豪華さからは程遠い、日々の生活に馴染んだ家具たちが、『お帰り』と私達の帰りを待っていてくれた。

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無邪気に遊ぶお猿の顔を見ていると、再来月からクレイグの家で始まる生活に大きな不安が沸き上がる。
小さなお猿を連れた、全くの赤の他人との共同生活のスタート。しかも、その相手というのは男である。ああ‥。何だかこのおまけの『大きな一つ』には、考えれば考える程頭が禿げて来るようだ。

まあしかし、そんな不安に見悶えしながらも、『全ては考え過ぎなのかもしれない』と後ろから背中を押し出す自分がいる。
今ここで立ち止まって考え込んだ所で、何が変わるわけでもない。
とにかく前に進まなければ、時間のドアの向こうにある世界を手に掴む事は出来ない。

出来る限りの逃げ道は用意しながら、ゆっくりとでも前に進める足は止めずにいよう。
そうすれば、きっとそこから何かが見えてくる。

 

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[2012/04/19 09:26] | エピソード | トラックバック:(0) | コメント:(0) | page top↑
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